三流批評

難解な一流の批評。傲慢な二流の批評。そのさらに下層へ。

古市憲寿「百の夜は跳ねて」

僕は古市憲寿氏の「平成くん、さようなら」を読み、あるところで「登場人物のほとんど全てが古市氏本人の投影であるようにしか思えず、その点でモノフォニックである」と評した。

芥川賞の結果が発表される直前、世間は古市受賞なるかで盛り上がっているところに、「受賞などありえない」と水を差すわけにもいかず、「他者の死を認知できないという点に面白さがある」などと苦し紛れに褒めてはみたものの、モノフォニックな小説であるという一点において、僕は「平成くん、さようなら」が芥川賞を受賞できなかったことに内心ほっとしたのである。

 

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こちらの作品は、と読み始めて、すぐにあきれてしまった。

冒頭からセリフではない部分、つまり地の文が不穏である。どうやら誰かの語る声であるのだが、それが誰の声かはしばらく明らかにされない。

そこを心にとどめながら読むと、主人公の翔太は、高層ビルなどの窓の清掃員をやっているらしいということに気が付く。一緒にゴンドラに乗っているのは美咲という女性。ゴンドラに乗りながら翔太のモノローグと、何者かの声が地の文に同居していて、目隠して正体の分からない何かを口に入れられた感覚である。快いものではない。

そのあたりをせめて気にせぬよう読み進める。地の文にある「生まれても死んでもいけない島」の存在は魅力的だが、はっきり言って前作の「安楽死したい」という平成くんへの逆張りであって、大した意味はないのではないかと思う。

窓の清掃を通じて、この翔太がかなり「内部」をじっと見ていることに気が付く。そのとき僕は、フランス映画の『危険なプロット』を思い出した。

主人公の高校で国語教師を勤める男性は、刺激的な作文を書く男子高校生の作文に個人的な添削を加えることになるのだが、その作文に虚実入り交じり、友人の母との危険な関係をにおわせ始め、スリリングに展開する。

結局主人公の男性は国語教師を辞職することになる(個人的な添削を行っていた少年の頼みで、試験問題を流出させた由)のだが、最後のシーンでは、その二人がアパートの前の公園から、並ぶ窓を覗き、住人たちの生活を想像する。さながら「空想」であり、それが「創作」でもある。

結局、彼もそういうことをする。翔太もビルから様々な人を覗き込み、「空想」する。

 

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翔太は、そのビルの清掃でたまたま目が合った老婆からの「記録」という仕事を引き受ける。「記録」と言っても、「盗撮」でしかない。

というのも翔太は、自分が行っているビルの清掃を〝幽霊〟となぞらえる。「盗撮」というのは〝幽霊〟の特権と言ってもいいだろう。

ただし、老婆が「金持ちの家って独房みたい」と形容することと考え合わせると、その〝幽霊〟とは、さながらパノプティコンの看守のようであると気がつく。フーコーが言うところの、近代社会の権力構造の根源である。彼は自らが「高い」がゆえに優越感に浸るのを拒絶しているようでありながら、東京を「息苦しく不自由な街」だの形容し、そこには「誰がやってもいい仕事」が溢れていると冷笑する。

冷笑と言えば、そもそも彼はそのような仕事をしておらずとも、大学時代の友人・康平が国会前のデモに熱心に参加しているのにも冷笑的な視線を向けているのだった。

この冷笑的な立場が、「高い」彼の物理的位置と噛み合って、とても〈厭〉な感じである。「嫌」と書かなかったのは、川上未映子の「乳と卵」でも参照していただければいい。

彼が自らを〝幽霊〟と規定するのと対置されるように、老婆は「天使」と何度も口にする。彼女は自宅の鏡も見えないようにして、マンションの部屋もカーテンの部屋を締め切っていて、ひたすらに〈見る-見られる〉という近代の権力構造を反復することを忌避する。彼女はその関係を、自らが構築するのではなく、翔太を使い、代行させることで、自らは権力構造の外部にいられるようにしたのだろう。

一方、〝幽霊〟とさらに対置されるのが、どうにも母親の存在ではないかと思われる。

どうやら翔太とそれほど仲が良いわけではないらしい、小学校教師の母親であるが、環境保護活動に目覚め、市議選に立候補しようとしている。それに合わせて、物語も春の統一地方選の時期に展開されている。

母親が熱心に語る「民主主義」なる〝幽霊〟を、翔太は信じていない。やはり母親に冷笑的な視線を向ける。「民主主義」なる〝幽霊〟に熱を上げ、デモに参加した康平に対して向けたのと同じ視線である。

 

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突然の老婆との別れで、彼もまた、「高い」ということに依拠した冷笑的な視線から離れることになる。仕事をやめることになるのだが、仕事をやめた彼は「写真」に目覚める。

いやはや、結局彼はやはりパノプティコン的な権力構造から真に離れることなどできないのだと思わされる。そして彼は、母親の選挙用のポスターの「写真」を撮影することで、母との権力構造を規定してしまったのである。もちろんそれだけではない。「東京砂漠」とでも呼ぶべきような、彼自身が規定するところの「息苦しく不自由な街」から少し抜け出し、埼玉で、家族思いに回帰する。そこには一種のナルシシズムを感じてしまう。

全てを読み終えてなお、この「百の夜は跳ねて」にはかなり無駄が多いと言わざるを得ない。似ていると感じるのは、村上春樹の作品かもしれない。冒頭翔太がゴンドラの中で美咲にフェラチオされるシーンなどは、「村上春樹流」にやりたかったのかもしれないが、(評価するかは別として)村上春樹は小説のなかにありとあらゆるストーリーを編み込み、壮大な寓話を作り上げるのである。そのことを考えれば、ただちょこんと独立した「フェラチオされた」というシーンの意味が、さっぱり理解できない。おそらく、窓の清掃は〝幽霊〟で、向こうから見られることはないというのを強調したかったのだろうが、それなら美咲がプルーム・テックが吸っていることだけで十分なはずである。

いや、あるいはこのシーンを敷衍して、この物語を壮大な翔太の〝リハビリ〟と読み替えてしまうこともできるかもしれない。

挫折知らずで大学までいた翔太が、就活に失敗し、窓の清掃を行う。読んで字のごとく、勢いを失い〝去勢〟された翔太が、高いところで「見られないが見られる」という不均衡で、勢いを取り戻す、〝リハビリ〟である。結局彼が母のもとに回顧したことを、エディプス・コンプレックスと考え合わせれば、それもまたありうる読解であろう。

前作「平成くん、さようなら」は、主人公も平成くんも、作家であったり不労所得者(権利関係の仕事)であったりし、かなり浮世離れしていた。それがかなり批判を読んだようで、今回はビルの清掃。ブルーカラーに視線を移したとは言え、内実は変わらない。結局この物語は浮世離れした上流階級の冷笑のようにしか思えない。

それを差し置いたとしても、前作が極めてモノフォニックな物語であったのが、窓清掃中の事故で亡くなった先輩の声が頭の中で聞こえるという、まさしく他者の声を内面化させた〈モノフォニー〉そのものに退化してしまったことには失望した。

彼の今後の作品に期待……とはいかないが、せめて本当に下流階級に目を向けるつもりがあるならば、今の姿勢ではいけないだろうと思う。