三流批評

難解な一流の批評。傲慢な二流の批評。そのさらに下層へ。

アイドルについて

ジャニー喜多川氏の訃報が世間をザワつかせた。

その時考えさせられるのは氏が日本の男性アイドル文化の発展に対して負った多大な役割である。

そこでここでは、「アイドル」とはいかなるものなのかを、何ら先行研究を参照せずにつらつら述べていく。もちろんその中には、すでに指摘されている点、あるいはすでに否定されている意見が含まれることもあるが、いずれも管見では了解できなかった点であり、ご寛恕いただければ幸いである。

 

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さて、さしあたり僕は「アニメ」におけるアイドルを参照したいと思う。その理由は、武者小路実篤「お目出たき人」にある。

この小説は、主人公「自分」が鶴という女性に、会話したこともないのに恋慕し、ほとんどストーカーのような振る舞いを見せる。そこに次のような箇所がある。女の神聖性を信じて疑わぬ「自分」の内心の吐露と考えて問題なかろう。

 女によって堕落する人もある。しかし女あって生きられる人が何人あるか知れない。女あって生れた甲斐を知った人が何人あるか知れない。女そのものは知れない。(男の如く、否それ以上に。)しかし男と女の間には何かある。

 誠に女は男にとって『永遠の偶像(エターナル・アイドール)』である。

武者小路実篤『お目出たき人』(新潮文庫))

さて、ここで注目したいのは、武者小路実篤が『永遠の偶像』に「エターナル・アイドール」というルビを振っている点である。当然のことであるが、アイドルというのは「偶像」である。

では「偶像」であるということが何を示すのか。それが端的に表れるのが、アニメの「アイドル」ではないかと思うのだ。

 

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例えばアニメ「ラブライブ!」を考えてみよう。

この作品は、主人公たち9名の少女が、自らの学校を廃校の危機から救うため、スクールアイドルとして活躍するという筋書きである。

このストーリーがあまりに陳腐であるという批判は、おそらく当たらない。なぜならば、このアニメは「ストーリー」を見せるためのものではないからだ。

元がゲームであるように、この作品の根幹はむしろ「音楽」にあるのであり、個々の「楽曲」を「ストーリー」らしきものが接続するという構造を持つと考えて良い。

言ってみれば、在原業平をはじめ、多くの歌人の短歌を集め、さながら一つの物語を形成した『伊勢物語』のようなもので、全体を統御する緻密な「ストーリー」はそこに見られない。

それでも単にゲームであるものを、やはりアニメでも展開するというのは、単純にゲームの人気や話題性を高めるということ以上に、「人々が物語を求める」という本性に従っていると言っていい。

しかしその「ストーリー」の中で徹底して排除されるリアリティ。例えば、廃校が突然決まったり、無名のスクールアイドルがどんどん有名になっていく様などは、リアリティが欠如していると言わざるを得ないが、それは何よりそこに人々は「偶像」を求めているからと言えるだろう。

つまり「偶像」=アイドルとは、リアリティを捨象した先に生まれる。

これが「アニメ」で展開されることにも留意したい。「アニメ」=二次元とは、三次元において付加される奥行き=リアリティを捨象した、アイドル向けの媒体であったと言えるだろう。

 

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これを現実のアイドルに敷衍すると、話は簡単である。

つまり、現実のアイドルとは「三次元」のようでいて、実際にはリアリティを捨象した「二次元」的属性を示す。つまりそこには切り捨てられるリアリティがある。

そのことを如実に示したのはSMAPの解散だったのではないかと思う。SMAP解散にあたって、多くの憶測がネット上で飛び交い、それは現在も止むことはないが、そのなかには大きく二派ある。

一つは、SMAPが不仲であったことを認める人々。もう一つは、SMAPは不仲であったりせず、実際には今も再結成を願っていると考える人々である。

このいずれかが正しいという問題なのではない。SMAPの活躍をつぶさに観察していようと、そのどちらもありうると思わせてしまう不確定性こそに注目したい。つまり彼らは「実際の人間関係」を捨象し、SMAPというアイドルとしてリアリティを捨象してアイドルであった。だからこそ、ファンは「実際の人間関係」についてはまとまった見解を示すことができないのである。

 

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そこで、ではアイドルが捨象した「リアリティ」の本性について考えたいところである。

その際導入すべきだと考えるのが、ホモソーシャルという概念である。

これは同性間に結ばれる連帯のことであり、殊更男性にだけ用いられるものではないが、イヴ・K・セジウィック『男同士の絆』以後、これは男尊女卑的で家父長制的な社会構造を温存してきた男性社会への批判によく用いられるようになった。

ホモソーシャル的連帯を示す男性は、その中でホモフォビアミソジニーという二つの属性を示す。

例えば、男同士が連帯する中に、同性愛者が紛れ込んでいたらどうだろう。友情で結ばれる関係性が、愛情の介入によって崩壊してしまうだろう。あるいはそこに、積極的に男性を誘惑する女性が現れたらどうだろう。同様の理由で、男同士の絆は崩壊してしまうに違いない。

すなわち、ホモソーシャル的連帯(=友情、信頼関係)を崩し、恋愛関係へと縺れさせる「同性愛」などは認められないし、その中で女性が主体的に登場してきて恋愛することも同様の理由で認められない。

ホモソーシャルの中においては、女性は欲望される客体として三角関係の中にただ「置かれる」だけの存在であり、主体性を発揮することは期待されていないのである。

 

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女性たちは、果たしてそれを黙って見ていたろうか。

そのことに目を付けたのが、ジャニー喜多川氏であったのではないだろうか。

氏はゲイであるとされることもあるが、もしそれが本当であれば、氏は男同士の絆から放逐される存在であったということになる。そんな彼が「男性アイドル」をプロデュースするとき、彼はそこから醜悪なホモソーシャルの香りを一掃することを務めた。

今やジャニーズを見て、その活動からミソジニーの要素を感じるファンは少ないだろう。また、意図的にホモセクシャルな関係を想起させる演出もあり、ホモフォビア的属性も示していない。

女性たちがジャニーズに対して魅力を感じるのは、ひとえに自らを単なる「客体」としてただ「置いておく」だけの存在ではなく、むしろ「偶像」=アイドルに影響を及ぼす「主体」としての価値を回復させるところに主眼がある。

一方、それと全く反対の属性を示すのが、秋元康氏がプロデュースするような女性アイドルである。

彼女たちは明らかにファン=ホモソーシャルな連帯によって性的消費の「客体」とされるべき存在として設定される。その盛衰のスピードが男性アイドルの比ではないことが、何より「消費」の証左であろう。

こうしたように、アイドルとは「偶像」=リアリティを捨象したところに存在するものなのであって、だからこそジャニー喜多川氏のプロデュースするジャニーズは、それを達成した存在として、評価されてきた。

 

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以上を暴論だと思うかもしれないが、実際にはそうも言い切れないのではないか。

何よりジャニーズは結婚しない。彼らには「好みの女性のタイプは?」などヘテロセクシャルであることを前提とした質問が投げかけられるにも関わらず、彼らは極めて無性的に振る舞う。

それこそがホモソーシャル的連帯=男同士の絆を崩壊させ、全く新たな連帯を生み出すことにつながったのではないか。

そしてその無性的な様子はジャニーズのメンバー同士のやりとりが「わちゃわちゃ」という風に形容されることからも思い起こされる。彼らは「男」ではなく、むしろ第二次性徴以前の無性的「男の子」として存立することを求められる。

そうした営業スタイルは、今や他事務所にも影響を与えている。

例えばアミューズの「ハンサム~~」を見ればそれがよく分かるが、直近のイベントであった「HANDSOME FESTIVAL」のコンセプトが〝学校〟であったことが思い出される。彼らはやはり「男」ではなく、「男の子」として造形される。

更にその前の年のイベントでは、神木隆之介氏と吉沢亮氏がイベント中にキスして見せた。これもまた、ホモソーシャルな連帯の「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」という属性を捨象するような出来事だったと言えるだろう。

 

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ここまでで論を終えていいのだが、最後に、そうしたアイドルが時折見せる「色気」のようなものに触れておこう。

例えばジャニーズのアイドルであっても、雑誌『an・an』の表紙を飾ったりする。時に彼らは半裸になり、「セクシー」な様子を見せる。

しかしそれは彼らがホモソーシャルな連帯を破綻させるからこそ「男」である様子を時折見せても問題ない、ということを示しているにすぎない。

つまり、普段は「男の子」であるからこそ、時折「男」を見せたとしても、そこにミソジニー女性嫌悪)の萌芽は感じない。そして、男性間の関係性の中において女性が「客体」としてやり取りされるような理不尽さを感じさせないのである。

と、ここまで考えたとき思い起こされるのは、日本の女性アイドルが、いかに醜悪な存在であるかということである。

何も現実の彼女たちが醜悪なのではなく、彼女たちをあくまで性的な「消費」対象として売り込むようなビジネスの在り方が、ひどく醜悪であると思う。

こう考えたとき、男性アイドルと女性アイドルの在り方は、全く異なる背景を持つことが分かるだろう。