三流批評

難解な一流の批評。傲慢な二流の批評。そのさらに下層へ。

参院選について

大衆の愚かさ

参院選が終わったが、それよりも前から、すでに国民の愚かさなるものは明らかにされているはずである。つまりそれは、結局一人ひとりが国の未来について考えていくなどという、理想的有権者・国民の姿は幻想に過ぎないことは明らかである。

その点、例えばルソーは、各人の思考である特殊意志の合計としての全体意志ではなく、共同体について公民として思考する一般意志が発動することで民主主義が機能すると考えたが、実際にはそんなことはなかった。

結局今の日本人の思考には特殊意志があるだけで、共同体を思考するだけの想像力が無かったと言わざるを得ないだろう。

そもそも現代の日本人には「日本国民である」ということを想像するだけの想像力もない。アンダーソン曰く「想像の共同体」、吉本隆明の「共同幻想」すら構築できておらず、そこにあるのは安直な〈わたし〉の拡張である。

つまるところ、現代日本ネトウヨしかり、今のナショナリズムのようなものは、想像力を働かせて国家を愛し、国家を守るようなものではなく、〈わたし〉を肥大化させた存在としての〈日本〉しか想像できていない。

その想像力の欠如が、マゾヒズム的なネトウヨの主張、つまり「義務を果たさなければ権利は与えられない」だとか「同性婚は認めない」などといったところに結実している。つまり、〈わたし〉と相いれない〈他者〉が共同体内に存在することを想像できていないのである。

結局人々の支持を集めたのは、「今のまま安定している」という点で〈わたし〉を利する与党と、「消費税ゼロ」などで〈わたし〉を利するれいわ新選組などであった。

それ以外の野党が、与党を批判したとしても、そもそも支持者の思考の形が大きく異なるのだから、意味が無いのである。

その点で、現在の愚かな国民たちの間には、〈わたし〉を乗り越える国家への思考が足りなかった。〈わたし〉のことしか考えられない、あるいは〈わたし〉を肥大化させた存在としての〈日本〉のことしか考えられない状況を〈文学〉と呼ぶのであれば、それを乗り越え国家を思考する〈政治〉には至らない。

宇野常寛曰く、〈終わりなき日常〉が〈文学〉と〈政治〉の断絶に起因するのであれば、それはいつまでも続いていく。この国が震災以後「政治の季節」だなどというのはやはり幻想であり、〈文学〉が持ち場も弁えず膨張し、「政治ごっこ」を繰り広げているに過ぎないだろう。

「選挙に行こう」は利するか

とはいえ、「政治ごっこ」の最たるものは、主に反政権側の「投票に行こう」といった種の話である。

しかしここにおいて考えられるべきは、そもそも国民の大多数は、国家について考えるだけの想像力すら持ち合わせていないのだから、「投票に行こう」と言われて投票に行ったとしても、その投票行動が野党を利することになるというわけではないことである。

むしろ、選挙に行かない層、それはすでにサイレントマジョリティになってしまっているが、彼らの多くは現状に問題意識を抱いていないのではないか。つまり「安倍政権で問題ない」と考えている。ということは、この層が投票に行ったとしたって、野党を利することにはならない。

であるとするならば、野党が行うのは、むしろ与党支持者の想像力を喚起することであった。知性を持てと説教し、啓蒙していくことであった。

諸外国のリベラルが、高学歴・高収入によって占められるように、そうした良識人たれと有権者の蒙を啓いていくのが、我が国のリベラルの第一歩ではないか。

その点で、この国のリベラルは致命的な思い違いをしている。彼らは国民を信じ過ぎているのである。何よりこの国の国民は愚かであるということを考えなくてはならない。そして、国民が愚かであるときに利を得るのが、上級国民たちであることを、数多くの中流下流国民に伝えていく使命を思い出すべきである。

憲法改正について

〈わたし〉の膨張した形での現在の右翼の在り方、便宜上ネトウヨと一括りにする。

そうした人々が憲法改正に熱心であるとしても、その憲法改正の在り方は、国のことを考えたものではなく、もはやどの動機を本人たちでさえ見失っているというのが本当のところではないか。

とは言いつつ、憲法9条に書かれていることと自衛隊の存在が矛盾することは、リテラルな読解として認めなくてはならないだろう。というか、特殊なコンテクストを理解しなくては理解できない憲法であるならば、そもそも憲法としてふさわしくないだろう(同様の理由で、憲法の本文は全て現代的仮名遣いに改めるべきである)。

そうした議論を行うことは必要だし、そうしたなかで国民の蒙が啓かれていく可能性はある。しかし、それに対して野党が「安倍政権下では議論しない」などという子供じみた話で対応していないだとか、憲法審査会を止めているのは与党野党どちらだだとか、そういうバカげたやり取りを続ければ続けるほど、愚かな国民たちは野党から離れていく。

そうした点において、議論はなされるべきである。また、全ての政党は何らかの形で憲法に不満を抱いているのだから、そこをすり合わせていく必要があるだろう。それすらなさず、1946年にできたようなホコリ臭くカビにまみれた条文をありがたがっているのは、さながら宗教である。

マシになるか

これからの日本の未来は暗い。

何より、安倍政権がこれ以上続くというのが致命的である。だって、アベノミクスの目覚ましい成果は見えない。管見ではその理由は財政出動が十分ではないことである。

安倍政権が何かにつけ「民主党政権を思い出せ」と言うが、かつてよりもベターである、という理由で現状を支持するのに、6年はあまりに長すぎるのではないか。

そもそも民主党政権の体たらくの一因は──55年体制以後みなそうであるが──自民党以外が政権を担えないという構造上の問題にある。圧倒的長期間自民党が政権を担ってきた。党内にその機構があり、党内で大臣などを育成していく。その仕組みが野党にはない。

つまり、政権交代すれば失敗するのは、この国において必然である。しかしそうであるならば、この国は事実上自民党一党独裁であるということになる。だとすれば、多少の失敗には目をつむり野党に政権を取らせてみる必要があるだろう。その後のリハビリとして安倍政権は十分機能を果たしただろうし、そろそろ野党がもう一度政権を取ったっていいと思う。

であるのに、野党は政権を奪取する構想を見せない。55年体制における社会党のように、万年野党に甘んじ、過半数以下のなかでどれだけ多数を取れるかという、全く意味をなさないところで戦っている。

野党の勝敗ラインが、憲法改正の発議をできる3分の2を阻止するかどうかにあるのだとしたら、それは笑止千万であると言わざるを得まい。

こうした具合において、愚かな国民の住まうこの国の未来は暗い。そしてそれが明るくなる未来は見えない。