三流批評

難解な一流の批評。傲慢な二流の批評。そのさらに下層へ。

想像力について

二つの炎上

「参院選について」と題した記事で、僕はこの国の国民がより愚かになってきたと書いたが、それは「想像力」の欠如の問題である。

具体的に二つの炎上を見れば事足りると思う。

第一に、若槻千夏の炎上である。彼女は参院選の選挙速報で、次のように発言した。

これに対し、2人の子どもを持つゲストの若槻千夏さんは「18時以降に子どもが学校から帰ってこなくて探しても見つからない時、学校に電話しても学校が対応してくれないなんて寂しくないですか?  気持ちはわかるけど、もっと減らせばいいことはある」と発言。有名な学園ドラマを引き合いに出しつつ、教員が子どもの対応を勤務時間で割り切ることについて「ビジネス的で寂しい」と違和感を示しました。

“モンペ”発言で炎上、謝罪した若槻千夏に見る「SNS時代の謝罪作法」(LIMO) - Yahoo!ニュース

若槻千夏の問題はただ一点だと思う。それは「寂しい」という極めて個人的な感情を、社会的正義のように振りかざしてしまったことだ。

しかし世間一般の人々はそうは受け止めなかった。彼女が誤ったことを言っている、と受け止めたのだ。そして彼女の発言が炎上し、最後にはインスタグラムで謝罪した。

冷静に考えてみれば、この謝罪にほとんど意味がないことが分かる。つまり若槻千夏の発言の真偽は、もはや個人の価値観に属することなのであり、「お前の価値観は認めない」という世論が、彼女に発言について謝罪させることになった。

しかし彼女がそもそも学校教員の働き方改革について「ビジネス的で寂しい」と考えたという事実は無くならないし、何事もなければ今もそう考えている。つまり、この一連の騒動は、全く社会にとってプラスとなる要素を含んでいない。

「社会的正義と認められそうなこと」に反する発言を非難し、そうした発言をさせないようにするだけで、「社会的正義と認められないこと」を考えること自体は批判されないのである(そして、批判されたところでは、それは「思想・良心の自由」の領域で、立ち入るべきではない)。そしてそれだけのことを考える「想像力」が炎上させた人々のなかには無い。

第二に、あいちトリエンナーレの問題を考えたい。

こちらは要するに「芸術」という特殊なコンテクストを考えずに安直な批判が行われたことが問題である。

というのも、僕たちが日常で使う言語は「AはBである」という文が「A=B」ということしか意味しない。しかし、芸術の中において「AはBである」ということは「A=C」ということや「A≠B」ということを示すのかもしれない。それだけの「想像力」が欠如しているのである。

複雑さを受け止めること

「想像力」とは何か。その前提にあるのは、「複雑さ」を帯びる問題系を、そのまま把握するという力である。そしてこれは、人文学の問題であると考えて良い。

「複雑さ」を帯びる問題を、「簡単な問題」に翻訳することができるのであれば、文学は必要ない。それは「文学作品を読むよりあらすじだけ読めばいい」ということであり、「説明文や意見文を読めばいい」ということになるからだ。

「複雑さ」を帯びる問題を、そのまま把握すること。それは「理解する」ことや「解決する」こととは異なる。それを成し遂げるのは「想像力」である。

と言うのも、問題が「複雑さ」を帯びるのは、多くの場合、そこに「複数性」が見られるからだ。ある問題が、Aという地点と、Bという地点から見るのでは様相を異にする。それを、「とりあえずAから見る」といった風に、簡単に翻訳することなく、把握することが、「複雑さ」に向き合うための第一歩である。

もちろんこれは文学においてポリフォニーと呼ばれる問題ととても近い。

具体例を挙げよう。センシティブな問題として、いわゆる慰安婦問題がある。そこで「強制連行された従軍慰安婦がいた」と主張する人々と、「そのような人々はいなかった」と主張する人々がいる。

お互いの政治信条として、己の主張を持つことは全く悪いことではない。しかし、己の主張は差し置いて、互いにそれぞれの主張を把握するということができなくては、問題の理解にはつながらない。

つまり、「強制連行された従軍慰安婦がいた」と考える人々は、世の中には「そのような人々はいなかった」と考える人が存在するということを把握しなくてはならないし、それなしに、とりあえずお互いの考えを否定するのでは、全く生産的なやり取りは可能にならない。

僕の考える「想像力」とは、つまり自分とは考えを異にする他者の存在を把握するということである。それは他者に与するということではない。そうした(文学的)想像力が成し遂げられない先に、まず明るい未来は無いだろうと思う。