三流批評

難解な一流の批評。傲慢な二流の批評。そのさらに下層へ。

令和元年の天皇論

もはや天皇制が問題として机上に上げられることなどありはせで、ほとんどの人々が天皇制を自明のものと考えており、そうでない者は特別にイデオロギーを背負った急進左派か、熱心などこかのカルトの信者である。

しかしそもそも天皇制とはいかなる制度であるのかということについて、その極めて根本的な解釈を行った例は少ない。厳密に言えば天皇論は数多ある。しかしながら、そのどれも市井の庶民にはいまいちピンと来ないというのが実際ではないか。

その点で、僕は第一に、「天皇」なる存在が持つ役割について指摘したうえで、第二に、現代の「天皇」なる存在について述べていきたい。

 

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そもそも「天皇」なるものは万世一系であることこそに意味がある。

このように書けば、「君は危険な右翼に違いない」と断じられるかもしれないし、それもある側面で間違いではないが、より詳しく書こう。

すなわち、「天皇」は万世一系であると語られる上において、意味を持つのである。

例えばヨーロッパの国々を思い浮かべてみればいい。ヨーロッパにある王室というのは、大概歴史の中でよその国からやってきたり、連れてこられたりしている。

一方、天皇はどうだろうか。例えば、日本の皇室の人々が全て亡くなってしまったりして、仕方がないのでイギリス王室から到底王位継承の恩恵に預かることの無いであろう王子を連れてきて、「天皇」ということにするようなことがありうるか。

もちろん人種の問題があるのかもしれない。しかしそれ以前に、より根源的に、僕たちが「天皇」に求めているものは、「これまでも続いてきたしこれからも続いていく」というところにこそ本質があるのではないか。

大日本帝国憲法において、その第一条に「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」と書かれていたことは、単に君主権を強めようというのではあらで、「万世一系天皇」ということを示している。

ただ「大日本帝国天皇之ヲ統治ス」とするのではいけない。統治者の天皇は、その背後に一〇〇代以上の天皇家の歴史を背負っている。もちろん、戦前でさえ、この一〇〇代以上というのがまともに信じられていたのかは怪しい。『日本書紀』なり『古事記』なりを紐解いても、最初の部分は全く信用すべくもない様子だ。しかし重要なのは、なんども繰り返す通り、「万世一系である」と語られることなのであり、「これまでも続いてきたしこれからも続いていく」というストーリーを語ることなのである。

そのことを、「天皇」という呼称がよく示している。本質的に「天皇」に名前などありはせず、ただ「天皇」あるいは「今上」と呼ばれる。そしてそのように呼ばれる存在は、二六〇〇年以上続いてきた(ということになっている)のである。

天皇」を語る上で、それぞれの「天皇」の人格などは考えるべきではない。厳密にいえば、「天皇」に対する人格とは、諡号という形で、崩御した後に与えられるものである。

天皇」が仮に高貴なのだとすれば、その高貴さとは背負う歴史の長さに由来するのであって、血統の問題などではない。「天皇」が仮に神聖なのだとすれば、その神性なるものはその歴史の長さの中ではぐくまれたものである。

 

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現代の「天皇」について現代日本人が抱いている感情は、おそらく歴史上最も「純」であるものに違いない。

ヨーロッパの思想家、例えばアーレントなどを紐解くと、彼女は「政治」ということについて多弁に語るが、日本人からしてみるとその割合があまりに高すぎる、すなわち僕たち自身において「政治」が占めるウェイトと、アーレントが「政治」に置くウェイトのギャップに困惑することもある。

ヨーロッパにおいてどうであるか、さっぱり知らないが、けれど少なくとも現代の日本人というのは、人々の連帯の中に二面性を包含している。

人々が集まると「政治」的になるというようなヨーロッパ的な判断は、少なくとも日本では明らかに間違っており、日本では人々が「政治」的側面を持ち連帯する一方、「世俗」の中で連帯もする。

むしろ、日本の投票率の低さを鑑みてみれば、日本人は「日本人」としてなら「政治」的になりうるかもしれないが、それが個人の知性において占める割合は大きくない。個人の脳内は、その大部分が「世俗」のために割かれている。

「だからこそ」という接続語が正しいのかは分からないが、日本人が未だに安倍晋三を総理大臣=「政治」的リーダーに据えているのはそのためだろう。すなわち、安倍首相を批判するために使うような知性というのは、日本人には残されていない。

一方、僕たちは、その頭脳の大部分を捧げる「世俗」的側面のリーダーとして「天皇」を戴く。

だからこそ、先帝陛下は慰霊にこそ多くの時間を割いてきた。僕たちにとって、最も「世俗」的な営み=プライベートな営みとは、死者を慰めることであるからだろう。

もちろんそこには、「天皇」なる存在が帯びる神性も作用しているに違いない。

先に述べた通り、その神性とは「天皇」の背負う歴史に由来するものである。

例えば長谷川三千子は、野村秋介の拳銃自殺に「彼の行為によって我が国の今上陛下は人間宣言が何と言おうが憲法に何と書かれていようが再び現御神となられた」と書いたらしいが、これはある点において示唆的である。

すなわち僕たちは、この長谷川氏の文章において、「天皇」が宗教的存在であったことを思い出す。そう、「天皇」は本当は宗教的存在のはずなのであるが、その「宗教」が「世俗」か「道徳」かに置き換えられ、信仰心が「敬意」や「畏敬の念」と言った形に挿げ替えられることで、それが隠蔽されている。

 

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最も危険な論旨を述べる前に、先に僕の立場を明らかにしておくのならば、僕は天皇制に対して賛意を示す。

僕たちが「政治」的リーダーとは他に、「世俗」のリーダーを担ぎ上げることは、確かに「政治」的になりえない日本人において意味があるだろうし、その「天皇」が背負う歴史が、無碍にせらるべきものでは無いことを、殊人文学徒たる僕は、よく理解しているつもりなのである。

 

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その上で、だ。かと言って僕たちは、天皇制が巧みに隠蔽した諸問題を、「尊敬せらるべき人」との由で無視することはできない。

天皇制とは本質的に封建的である。

天皇を担ぐ時点で、僕たち国民が、天皇を疑似的に「父」に見立て、国民一人ひとりが「赤子」であるとの関係が構築される。その点において、また、皇族の中に色濃く残されているように、これは「イエ制度」の名残なのであって、その封建的雰囲気がこの国を包み込むのである。

そして、「天皇は男性でなくてはならない」という規定があり、天皇が国民の疑似的な「父」である限り、皇族の営みというのは、つまりホモソーシャルな交流でしかなく、「天皇は女性であってはならない」という規定のためにミソジニーすら見通せる。

すでに指摘されている通り、ホモソーシャルな関係とは、ミソジニーホモフォビアをその宗旨とする。実際、天皇制というシステムは同性愛を想定していない。天皇が同性愛者であり、皇后を迎えられず、ゆえに子孫が残らないというような場合を想定できていない。

そこで敷衍して、愛知トリエンナーレにおける表現の不自由展で、昭和天皇の肖像が燃やされた一件を考えたい。

右翼の批判は、「お前の写真が燃やされたら嫌な気はしないのか」というものだったのだが、その批判が当たらないことはお分かりだろう。

つまり、「写真が燃やされたら嫌」というのは、人格の問題である。しかし先に述べた通り、本質的に「天皇」に「人格」は想定されていない。崩御した後に、諡号という形で付与されるものに過ぎず、そもそもそれほど重視すべきではない。

この国は「天皇」に「人格」だけでなく「人権」さえ認めていないのであり、その点において憲法の「象徴」なる語は言いえて妙である。そう、「天皇」とは、ある「記号」なのであり、それは一義に措定される。

言うなれば、本来人が持つべき、時に相矛盾するような属性というのがある。「異性と接するのは苦手」と思いながら「異性の恋人がほしい」と願うようなものだろう。しかし、そうした矛盾の全てを「人格」が包含する。「人格」とはモノフォニーでありつつ、ポリフォニーなのであり、多次元な不定形を示す。

しかし、天皇にはそういうものが無い。天皇には、相矛盾する属性などあらで、ただ一義に措定され、そこに本来あるべき人間としての「深み」のようなものは切り捨てられる。

例えばアイドルファンばアイドルに対して抱くような「幻想」を、僕たちは「畏敬の念」と置き換えて天皇に対して抱くのであり、アイドルの私生活をアイドルファンは見て見ぬふりするように、僕たちも天皇の「人格」を見て見ないことにしている。

本筋に戻れば、「天皇の写真を燃やす」ということは、その点において問題無い。「天皇にだって人格はある」と言う批判があるかもしれないが、それは「天皇だって普通の人間だ」=「天皇なんていなくていい」ということでしかない。

また、天皇の肖像には、燃やされる理由がある。先に述べた通り、天皇制は問題を孕んだいるからである。

 

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僕たちは往々にして天皇を語るが、そのたびに、その背負う(とされる)歴史の長さに目をつむる。それは確かにある面では正しく、なぜなら天皇の歴史の最初の部分とは「空想」でしかない。

僕たちは往々にして天皇を語るが、その天皇についてのnarrationが、天皇から「人格」を奪うものであるとの意識は無いように思える。

僕たちは、極めて身近であるはずの存在について、ただ漠然と「尊敬」し「畏敬の念」を抱くのであるが、それが抱えている問題と、その残酷さについて考えることなしに、やはり天皇を崇敬するという考えには与するべきではないのではないだろうか。