三流批評

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色とは何か:アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」最終話の考察

色とは何か

色とは何か。その問いに、科学的応答を期待しているわけではない。僕は「色とは何か」と問うことで、人の意識の深淵に疑問を投げかけようとしている。

哲学に、「逆転クオリア」と呼ばれるようなアポリアがある。すなわち、僕が赤だと思っている色と、緑だと思っている色が、別の人とはまるきり入れ替わっているとする。そうだとしても、僕は別の人とそれを確認することができない。脳の中を覗いたり、「どのように認識しているか」ということをお互いに確かめるようなことはできないのだ。

「色」とは、個人の尊厳に関わる問題である。なぜならそれはその人が物象をどのように認識しているのかという極めてプライベートな問題なのである。だからこそ、「色」という問題における〈他者〉とは大問題である。

アニメ「色づく世界の明日から」における「色」

「色」をテーマに扱った作品として思い出されるのは、「色づく世界の明日から」ではないか。2018年の10月から12月に放送された本作の主人公は、色が見えない=世界がグレースケールに見える月白瞳美であった。

月白瞳美は2078年の女子高生であったが、祖母・月白琥珀の計らいで、2018年に送られる。その2018年、祖母・月白琥珀は現役の女子高生であり、魔法写真美術部の一同と同じときを過ごすことで、色を取り戻していくという物語である。

例えば、1話を見てみよう。

風野あさぎ:(空を見ながら)うわあ! 見て! 綺麗!

山吹将:(空を見て)ホントだ。空の色、絶妙!

川合胡桃:梅干し色!

風野あさぎ:朱鷺色じゃないですか?

山吹将:もう少し、空が見えるところに行こう。

ここにおける会話とは、僕たちが「色」をどのように認識するかという問題が再現されているといって良い。

僕たちは対象を目の前に、それが何色か語り合うことで、それを何色と呼ぶべきなのかを同定する。すなわち、「色を認識する」とは、共同体に参加することなのであり、協同の営為に参画することである。

だからこそ、月白瞳美は色を認識できない。彼女は頑ななまでに内向的であり、内向的であるがゆえに「色を認識する」ことができない。

そんな彼女が、「写真」ではなく、葵唯翔の「絵画」の中においてのみ色を見ることができる。それはなぜか。

いかに写真論が哲学的議論を重ねようと、「写真」とは現実の形象をそのまま写し取るものである。しかし「絵画」はどうか。「絵画」は現実の形象を描く必要などない。その限りにおいて、「絵画」を認識するために共同体に参加する必要はない。だからこそ、瞳美は色を認識できるのである。

村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

それが顕著に表れているのが、村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。この物語は、村上春樹にしては物語の筋の説明が容易である。

主人公・多崎つくるは、愛知県にいた高校時代に、赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵理という名前に色彩を持つ4人と友人だった。しかし、多崎つくるが東京に行った途端、なぜかその4人に絶交されてしまう。

それからしばらく期間を経た多崎つくるが、ある女性の出会いをきっかけに、なぜ自分は絶交されたのかの理由を探す、というのがあらすじだ。

結局、主人公・多崎つくるは「色彩を持たない」。それが彼にとって必要以上のコンプレックスとなってしまった。以下は、フィンランドに住む黒埜恵理との会話である。

「でも僕には自信が持てないんだ」

「なぜ?」

「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているのかもしれないけど、その中には内容と呼べるほどのものはろくすっぽない。……」

彼にとって「自信」「自分というもの」「個性」「鮮やかな色彩」「こちらから差し出せるもの」「内容」というのが、全て同じものを指している。「色」である。その「色」が「空っぽの容器」を満たすことにこそ、彼は意味を見出している。

しかしもちろんそんな考え方はおかしい。そのことを、黒埜恵理はきちんと指摘する。

「ねえ、つくる、ひとつだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。そんなのはただの名前に過ぎないんだよ。私たちは確かにそのことでよく君をからかったけど、みんな意味のない冗談だよ。君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている。今では健康な三十六歳の市民で、選挙権を持ち、納税もし、私に会うために一人で飛行機に乗ってフィンランドまで来ることもできる。君に欠けているものは何もない。自信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ。怯えやつまらないプライドのために、大事な人を失ったりしちゃいけない」

すなわち黒埜は名前という範囲を超え、多崎つくるに「カラフル」という色を付与する。それができるのは、黒埜が「黒」だからだろう。すなわち、「カラフル」である、とは、「混ぜ合わせれば真っ黒になる」(厳密には焦げ茶色だと思うが)ということを示すのだから。

「白」ということ

そこでふと気が付くだろう。アニメ「色づく世界の明日から」において、世界をグレースケールでしか認識できない主人公の名前は、月「白」瞳美であった。

そして、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、多崎つくるが絶交されたのは、「白」根柚木が「多崎つくるにレイプされた」と友人に言ってまわったからだということが明らかになる。つまり、実際には色彩を持たないのは多崎つくるではなく、白根柚木なのではないか。

そう、「白」とは、真に色なのではない。そして、「白」には特権的な地位が与えられている。月白「瞳」美は、名前からして「見る」ことを運命づけられており、多崎つくるは駅の設計者となり、色を塗る上位者になっている。

アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」

ここで、副題にある通り、アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」に戻ろう。この作品は、2019年7月から9月にかけて放送された作品である。

高校を舞台に、文芸部の女子高生たちの性への目覚めを描く。最終話直前の第11話で、文芸部部長・曾根崎り香が、恋人である天城駿とラブホテル街で目撃された咎で退学処分となる。

実はこの2人がラブホテル街を訪れたのは、文芸部員・本郷ひと葉が、文芸部顧問でミロ先生こと山岸知明を唆し、連れてきているのを目撃したためであった。

これに責任を感じた文芸部員は、顧問・山岸を人質に学校に立てこもる。しかし、立てこもりの本旨からは離れ、各々のほのかな恋愛感情を告白しあい、泥沼の様相を呈する。

その様子を見て、顧問・山岸は「色鬼」を提示する。

山岸知明:色鬼はどうでしょう。……そう、色鬼は、主観と客観があやふやなところで正解のジャッジを求められる。各々が自らの視点を晒しあうことで、話し合いに似た効果が生まれるのではないでしょうか。……皆さんは今、新しく芽生えた感情に必死で名前を付けようとしている。その作業と同じように、色の名前を修飾語、それぞれの言葉で飾って、それぞれの心の色をさらけ出すんですよ。

山岸の提案は、全くその通りだった。

「色づく世界の明日から」において見たように、「色」とは、共同体の中で談義されることで、同定される。だからこそ、その色を特定し、探し求める作業は、「話し合い」とも呼べるわけである。

山岸はこれを「この色鬼は、鬼の視点を理解することが絶対」と言う。鬼がそれをどのような色と捉えているのか、それを理解しなくては、この鬼ごっこには勝利できない。

しかし、そもそもそんなことは不可能である。〈私〉と〈他者〉とは、本質的に言って完璧に理解し合うことなどできない。

ここで千葉雅也「デッドライン」(『新潮』2019年9月号)から引きたい。同様の記述は氏の他の著作にもあるだろうが、あいにくとそちらは読んだことがないのだ。

この作品に出てくる主人公の師・徳永は、荘子の逸話を持ち出した。荘子が、魚が泳いでいるのを見て「楽しそうに泳いでいる」と言う。すると恵子が「なぜ楽しそうだとわかるのか」と「自己/他者の分断」を持ち出す。

すると荘子は「なぜ私には分からないと君には分かるのか」と、「自己/他者の分断」を繰り返す。これは「永遠に繰り返される」。その中で、徳永は次のように言う。

 自己/他者という二項対立から始めるのではなく、ただたんに「そばにいる」、「傍らにいる」ということ、このこと自体が荘子にとって重要なのです。

 人間でも動物でもいいのです。他者と「近さ」の関係に入る。そのときに、わかる。いや逆に、他者のことがわかるというのは、「近さ」の関係の成立なのです。

「近さ」において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのときに私は、私の外にある状態を主観のなかにインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです。

ここで「荒ぶる季節の乙女どもよ。」の最終話に戻りたい。

「色鬼」で菅原新菜は、「私たちは青い群れ」とお題を出す。

鬼から逃げた小野寺和紗と典元泉は(この2人は付き合っているのだが)、逃げていった廊下の先が、月明かりに照らされており、空間全体が「青」に見えることに気が付く。2人同時に、である。

もちろん、この2人が、同じ空間で、同じように「青だ」と感じたとしても、それが同じ「青」であるかは分からない。それこそ「自己/他者の分断」である。

しかしこの2人は、それ以前の段階、すなわち「そばにいる」「傍らにいる」という段階において、「共同的な事実」=「青」を立ち上げ、理解しあう。

この色鬼を経て、文芸部一同は燃え尽きる。本郷ひと葉曰く「青っていうより真っ白」なまでに。そして彼女は「「白痴」かな、坂口安吾」と付け加える。

しかし曾根崎り香は次のように解釈する。

曾根崎り香:純潔の白。汚れがなく、心が清らかなこと。また、その様。異性との性的な交わりが無く、心身が清らかなこと。……これから色んなことを知ったら、私たち、どんどん汚れていくのかしら。

須藤百々子:そうは思いません。だって、今までこの校舎を牛耳ってた「青」が、「白」い光に照らされたら、色だらけになりました。これだけの色が、「青」の下に眠ってた。染まっていくんじゃない、汚されていくんでもない。新しい気持ちに照らされると、自分でも気づいていなかった、もともと自分が持ってた色が、どんどん浮かび上がってくるんだ。

夜の校舎を月明かりが「青」く染め上げる。しかし太陽が昇ってくることで、そこが「カラフル」であることに気が付く。

注目すべきは「私たちは青い群れ」と菅原新菜が色鬼のお題を出したとき、本郷ひと葉がすぐに「青春」という語を思い浮かべたことだろう。

女子高生たちは、「青春」という色に染め上げられている。しかし、それはそのような一色に染め上げられていい種のものではない。それぞれが持つカラフルの色彩さえ、「青春」色に染め上げていく様子。それに異議を唱える彼女たちは、燃え尽きて「真っ白」になり、そのときはじめて「自分が持ってた色」に気が付く。

「真っ白」とは決して純潔の色なのではない。第一、そこで坂口安吾の「白痴」が引き合いに出されたことがそれを物語っている。

先述の通り、「真っ白」とは「色」なのではないということは、すでに示した。ここにおける「真っ白」とは、もはや「色」なのではなくて、そこに差し込む「光」そのものを指し示す。そのとき、「純潔」もまた、「心身が清らか」=異性と交遊しないことなどという対応関係からズラされる。

「ズレ」ていく

この物語の最終回における要点が、「ズレ」にあったことがご理解いただけただろうか。

この物語はここまで、性的な事柄に疎く、純潔=「真っ白であること」にこだわり続けた女子高生たちを描いてきた。

しかし最終回になって、そのような価値観を「ズラす」のである。それは、元が「真っ白」であり、それが性的関係によって汚されていくのだという偏屈したタブラ・ラサ的発想の拒絶である。

純潔=色に汚されていないこと、という対応関係は、純潔=それぞれの色が主張すること、へと「ズラされ」る。

そして「真っ白」もまた「汚れなき色」から、それを照らす「光」へと「ズラされ」るのである。

だからこそ、この作品は最後に痛快であった。この「ズレ」にこそ、僕たちは「してやられた」と膝を打つしかないのである。