「差別を糾弾する方が差別している」という馬鹿げた批判に向けて
差別とは、どのような行為なのでしょうか。
一般に、世間には様々な差別があることを、僕たち自身は知っていて、一方で、「その差別のどれに対しても加担していない」という自意識のもとに生活している。
しかし、本当にそうなのか、という疑問は、当然あるべきです。
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と、面倒くさいことを繰り返すのも、本当に「面倒くさい」ので、さっさと「差別」に定義を与えましょう。
様々な定義があることは承知していますが、「本人の属性を、他者の属性から区別し、待遇に差をつけること」といった具合に定義してみてはどうでしょう。
そこで、Aマッソというお笑い芸人が、「大阪なおみに必要なものは漂白剤」といったような発言をしたというのです。
これは、冷静に考えて(「日焼けしすぎやろ」なる語が付け加えられたとしても)、彼女のルーツ=肌の色にかこつけて、それをからかっているということになる。
すなわち「本人の属性」=父親がハイチ系アメリカ人であることによる「肌の色」の問題を理由に、そうではない多数と考えられる人々から区別し、それを「からかう」ことによって「待遇に差をつけ」たという具合です。
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こうした「差別」のようなものへの批判が出ると、批判への逆批判として、次のような言葉が見えることがあります。
すなわち、「そう批判する人間たちは、差別をしたことがないと言い切れるのか」という逆批判です。
しかし、この逆批判は成立していない。
そもそも「差別をしたことがない人」しか差別を批判してはいけない、というルールなどないのです。
それを言い始めれば、差別的な社会意識を受け継ぐ社会は、永遠にそれを途絶えさせることができない。つまり、継続していく社会のなかで、ある世代が、自らも過去に差別をしたという矛盾を包含しつつ、それでもやはり差別を憎む、というのが、差別を根絶していくためには必要な条件になるのです。
そして、そのように、ある世代が突然「覚醒」して、差別を憎み始めるとき、その人々は、自らの先人たちが差別をしてきたのだという歴史を背負う必要がある。
「差別だ」と誤解を受けることのないよう、最大限繊細な心遣いを見せる必要があるのです。
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さて、Aマッソへの批判、それに対する逆批判の中に、次のようなものを見つけました。
「松崎しげるに漂白剤が必要と言えば笑うだろうに、大阪なおみに対しては笑わずに差別だと言う。「差別だ」と言う側こそが差別をしているのだ」
というものです。
まず、先ほどの差別の定義に従えば、いくら松崎しげる氏が日焼けしていようと、それが「本人の属性」と呼べない以上、それをいじることは、必ずしも差別と呼ばれるべきものではない。
そして、「差別だ」と言う側が差別をしている、という指摘は、差別を憎むうえで、最も大きな課題だと言っても過言ではないでしょう。
すなわち、「差別だ」と指摘し続ける限りにおいて、「差別」は再生産され続ける、という寸法です。
確かにその通り。実は「差別」に対する最も根本的な解決方法とは、政治的忘却=丸ごと全て忘れてしまうことなのです。
しかし、現実的にそんなことはできない。それにも関わらず、「差別」を指摘さえせずスルーすれば、いつか「差別」は忘却されるだろうなどと期待しているなどしたら、それは頭の中にお花畑があると言わざるを得ません。
先ほど言ったように、僕たちに期待されていることは、それまでの「差別してきた」という歴史を引き受けながら、「差別はいけない」という方向に大逆転させることです。
そのとき、「差別が無くなってほしい」と祈りながら、差別を看過することは、差別のシステムを温存させることに他ならない。
だからこそ、僕たちには、時に過敏に差別に対応していくことが求められる。政治的忘却が成し遂げられるのだとすれば、少なくともそれは次世代以降の宿命であって、僕たちに求められるのは「差別」の芽を片っ端から摘み取ることでしょう。
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タイトルに戻り、「差別を糾弾する方が差別している」という馬鹿げた批判に向けて言えば、そもそも差別を糾弾せず看過し、人々がすっかり忘却してしまうことに期待する、などというのは、とんでもない幻想だし、無責任だということです。
そして、僕たちは、それまでの「差別してきた」という歴史を大転換させる宿命を担っているのであり、差別の構造を糾弾し続けなければならないのです。