「差別を糾弾する方が差別している」という馬鹿げた批判に向けて
差別とは、どのような行為なのでしょうか。
一般に、世間には様々な差別があることを、僕たち自身は知っていて、一方で、「その差別のどれに対しても加担していない」という自意識のもとに生活している。
しかし、本当にそうなのか、という疑問は、当然あるべきです。
◆
と、面倒くさいことを繰り返すのも、本当に「面倒くさい」ので、さっさと「差別」に定義を与えましょう。
様々な定義があることは承知していますが、「本人の属性を、他者の属性から区別し、待遇に差をつけること」といった具合に定義してみてはどうでしょう。
そこで、Aマッソというお笑い芸人が、「大阪なおみに必要なものは漂白剤」といったような発言をしたというのです。
これは、冷静に考えて(「日焼けしすぎやろ」なる語が付け加えられたとしても)、彼女のルーツ=肌の色にかこつけて、それをからかっているということになる。
すなわち「本人の属性」=父親がハイチ系アメリカ人であることによる「肌の色」の問題を理由に、そうではない多数と考えられる人々から区別し、それを「からかう」ことによって「待遇に差をつけ」たという具合です。
◆
こうした「差別」のようなものへの批判が出ると、批判への逆批判として、次のような言葉が見えることがあります。
すなわち、「そう批判する人間たちは、差別をしたことがないと言い切れるのか」という逆批判です。
しかし、この逆批判は成立していない。
そもそも「差別をしたことがない人」しか差別を批判してはいけない、というルールなどないのです。
それを言い始めれば、差別的な社会意識を受け継ぐ社会は、永遠にそれを途絶えさせることができない。つまり、継続していく社会のなかで、ある世代が、自らも過去に差別をしたという矛盾を包含しつつ、それでもやはり差別を憎む、というのが、差別を根絶していくためには必要な条件になるのです。
そして、そのように、ある世代が突然「覚醒」して、差別を憎み始めるとき、その人々は、自らの先人たちが差別をしてきたのだという歴史を背負う必要がある。
「差別だ」と誤解を受けることのないよう、最大限繊細な心遣いを見せる必要があるのです。
◆
さて、Aマッソへの批判、それに対する逆批判の中に、次のようなものを見つけました。
「松崎しげるに漂白剤が必要と言えば笑うだろうに、大阪なおみに対しては笑わずに差別だと言う。「差別だ」と言う側こそが差別をしているのだ」
というものです。
まず、先ほどの差別の定義に従えば、いくら松崎しげる氏が日焼けしていようと、それが「本人の属性」と呼べない以上、それをいじることは、必ずしも差別と呼ばれるべきものではない。
そして、「差別だ」と言う側が差別をしている、という指摘は、差別を憎むうえで、最も大きな課題だと言っても過言ではないでしょう。
すなわち、「差別だ」と指摘し続ける限りにおいて、「差別」は再生産され続ける、という寸法です。
確かにその通り。実は「差別」に対する最も根本的な解決方法とは、政治的忘却=丸ごと全て忘れてしまうことなのです。
しかし、現実的にそんなことはできない。それにも関わらず、「差別」を指摘さえせずスルーすれば、いつか「差別」は忘却されるだろうなどと期待しているなどしたら、それは頭の中にお花畑があると言わざるを得ません。
先ほど言ったように、僕たちに期待されていることは、それまでの「差別してきた」という歴史を引き受けながら、「差別はいけない」という方向に大逆転させることです。
そのとき、「差別が無くなってほしい」と祈りながら、差別を看過することは、差別のシステムを温存させることに他ならない。
だからこそ、僕たちには、時に過敏に差別に対応していくことが求められる。政治的忘却が成し遂げられるのだとすれば、少なくともそれは次世代以降の宿命であって、僕たちに求められるのは「差別」の芽を片っ端から摘み取ることでしょう。
◆
タイトルに戻り、「差別を糾弾する方が差別している」という馬鹿げた批判に向けて言えば、そもそも差別を糾弾せず看過し、人々がすっかり忘却してしまうことに期待する、などというのは、とんでもない幻想だし、無責任だということです。
そして、僕たちは、それまでの「差別してきた」という歴史を大転換させる宿命を担っているのであり、差別の構造を糾弾し続けなければならないのです。
色とは何か:アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」最終話の考察
色とは何か
色とは何か。その問いに、科学的応答を期待しているわけではない。僕は「色とは何か」と問うことで、人の意識の深淵に疑問を投げかけようとしている。
哲学に、「逆転クオリア」と呼ばれるようなアポリアがある。すなわち、僕が赤だと思っている色と、緑だと思っている色が、別の人とはまるきり入れ替わっているとする。そうだとしても、僕は別の人とそれを確認することができない。脳の中を覗いたり、「どのように認識しているか」ということをお互いに確かめるようなことはできないのだ。
「色」とは、個人の尊厳に関わる問題である。なぜならそれはその人が物象をどのように認識しているのかという極めてプライベートな問題なのである。だからこそ、「色」という問題における〈他者〉とは大問題である。
アニメ「色づく世界の明日から」における「色」
「色」をテーマに扱った作品として思い出されるのは、「色づく世界の明日から」ではないか。2018年の10月から12月に放送された本作の主人公は、色が見えない=世界がグレースケールに見える月白瞳美であった。
月白瞳美は2078年の女子高生であったが、祖母・月白琥珀の計らいで、2018年に送られる。その2018年、祖母・月白琥珀は現役の女子高生であり、魔法写真美術部の一同と同じときを過ごすことで、色を取り戻していくという物語である。
例えば、1話を見てみよう。
風野あさぎ:(空を見ながら)うわあ! 見て! 綺麗!
山吹将:(空を見て)ホントだ。空の色、絶妙!
川合胡桃:梅干し色!
風野あさぎ:朱鷺色じゃないですか?
山吹将:もう少し、空が見えるところに行こう。
ここにおける会話とは、僕たちが「色」をどのように認識するかという問題が再現されているといって良い。
僕たちは対象を目の前に、それが何色か語り合うことで、それを何色と呼ぶべきなのかを同定する。すなわち、「色を認識する」とは、共同体に参加することなのであり、協同の営為に参画することである。
だからこそ、月白瞳美は色を認識できない。彼女は頑ななまでに内向的であり、内向的であるがゆえに「色を認識する」ことができない。
そんな彼女が、「写真」ではなく、葵唯翔の「絵画」の中においてのみ色を見ることができる。それはなぜか。
いかに写真論が哲学的議論を重ねようと、「写真」とは現実の形象をそのまま写し取るものである。しかし「絵画」はどうか。「絵画」は現実の形象を描く必要などない。その限りにおいて、「絵画」を認識するために共同体に参加する必要はない。だからこそ、瞳美は色を認識できるのである。
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
それが顕著に表れているのが、村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。この物語は、村上春樹にしては物語の筋の説明が容易である。
主人公・多崎つくるは、愛知県にいた高校時代に、赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵理という名前に色彩を持つ4人と友人だった。しかし、多崎つくるが東京に行った途端、なぜかその4人に絶交されてしまう。
それからしばらく期間を経た多崎つくるが、ある女性の出会いをきっかけに、なぜ自分は絶交されたのかの理由を探す、というのがあらすじだ。
結局、主人公・多崎つくるは「色彩を持たない」。それが彼にとって必要以上のコンプレックスとなってしまった。以下は、フィンランドに住む黒埜恵理との会話である。
「でも僕には自信が持てないんだ」
「なぜ?」
「僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているのかもしれないけど、その中には内容と呼べるほどのものはろくすっぽない。……」
彼にとって「自信」「自分というもの」「個性」「鮮やかな色彩」「こちらから差し出せるもの」「内容」というのが、全て同じものを指している。「色」である。その「色」が「空っぽの容器」を満たすことにこそ、彼は意味を見出している。
しかしもちろんそんな考え方はおかしい。そのことを、黒埜恵理はきちんと指摘する。
「ねえ、つくる、ひとつだけよく覚えておいて。君は色彩を欠いてなんかいない。そんなのはただの名前に過ぎないんだよ。私たちは確かにそのことでよく君をからかったけど、みんな意味のない冗談だよ。君はどこまでも立派な、カラフルな多崎つくる君だよ。そして素敵な駅を作り続けている。今では健康な三十六歳の市民で、選挙権を持ち、納税もし、私に会うために一人で飛行機に乗ってフィンランドまで来ることもできる。君に欠けているものは何もない。自信と勇気を持ちなさい。君に必要なのはそれだけだよ。怯えやつまらないプライドのために、大事な人を失ったりしちゃいけない」
すなわち黒埜は名前という範囲を超え、多崎つくるに「カラフル」という色を付与する。それができるのは、黒埜が「黒」だからだろう。すなわち、「カラフル」である、とは、「混ぜ合わせれば真っ黒になる」(厳密には焦げ茶色だと思うが)ということを示すのだから。
「白」ということ
そこでふと気が付くだろう。アニメ「色づく世界の明日から」において、世界をグレースケールでしか認識できない主人公の名前は、月「白」瞳美であった。
そして、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、多崎つくるが絶交されたのは、「白」根柚木が「多崎つくるにレイプされた」と友人に言ってまわったからだということが明らかになる。つまり、実際には色彩を持たないのは多崎つくるではなく、白根柚木なのではないか。
そう、「白」とは、真に色なのではない。そして、「白」には特権的な地位が与えられている。月白「瞳」美は、名前からして「見る」ことを運命づけられており、多崎つくるは駅の設計者となり、色を塗る上位者になっている。
アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」
ここで、副題にある通り、アニメ「荒ぶる季節の乙女どもよ。」に戻ろう。この作品は、2019年7月から9月にかけて放送された作品である。
高校を舞台に、文芸部の女子高生たちの性への目覚めを描く。最終話直前の第11話で、文芸部部長・曾根崎り香が、恋人である天城駿とラブホテル街で目撃された咎で退学処分となる。
実はこの2人がラブホテル街を訪れたのは、文芸部員・本郷ひと葉が、文芸部顧問でミロ先生こと山岸知明を唆し、連れてきているのを目撃したためであった。
これに責任を感じた文芸部員は、顧問・山岸を人質に学校に立てこもる。しかし、立てこもりの本旨からは離れ、各々のほのかな恋愛感情を告白しあい、泥沼の様相を呈する。
その様子を見て、顧問・山岸は「色鬼」を提示する。
山岸知明:色鬼はどうでしょう。……そう、色鬼は、主観と客観があやふやなところで正解のジャッジを求められる。各々が自らの視点を晒しあうことで、話し合いに似た効果が生まれるのではないでしょうか。……皆さんは今、新しく芽生えた感情に必死で名前を付けようとしている。その作業と同じように、色の名前を修飾語、それぞれの言葉で飾って、それぞれの心の色をさらけ出すんですよ。
山岸の提案は、全くその通りだった。
「色づく世界の明日から」において見たように、「色」とは、共同体の中で談義されることで、同定される。だからこそ、その色を特定し、探し求める作業は、「話し合い」とも呼べるわけである。
山岸はこれを「この色鬼は、鬼の視点を理解することが絶対」と言う。鬼がそれをどのような色と捉えているのか、それを理解しなくては、この鬼ごっこには勝利できない。
しかし、そもそもそんなことは不可能である。〈私〉と〈他者〉とは、本質的に言って完璧に理解し合うことなどできない。
ここで千葉雅也「デッドライン」(『新潮』2019年9月号)から引きたい。同様の記述は氏の他の著作にもあるだろうが、あいにくとそちらは読んだことがないのだ。
この作品に出てくる主人公の師・徳永は、荘子の逸話を持ち出した。荘子が、魚が泳いでいるのを見て「楽しそうに泳いでいる」と言う。すると恵子が「なぜ楽しそうだとわかるのか」と「自己/他者の分断」を持ち出す。
すると荘子は「なぜ私には分からないと君には分かるのか」と、「自己/他者の分断」を繰り返す。これは「永遠に繰り返される」。その中で、徳永は次のように言う。
自己/他者という二項対立から始めるのではなく、ただたんに「そばにいる」、「傍らにいる」ということ、このこと自体が荘子にとって重要なのです。
人間でも動物でもいいのです。他者と「近さ」の関係に入る。そのときに、わかる。いや逆に、他者のことがわかるというのは、「近さ」の関係の成立なのです。
「近さ」において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのときに私は、私の外にある状態を主観のなかにインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです。
ここで「荒ぶる季節の乙女どもよ。」の最終話に戻りたい。
「色鬼」で菅原新菜は、「私たちは青い群れ」とお題を出す。
鬼から逃げた小野寺和紗と典元泉は(この2人は付き合っているのだが)、逃げていった廊下の先が、月明かりに照らされており、空間全体が「青」に見えることに気が付く。2人同時に、である。
もちろん、この2人が、同じ空間で、同じように「青だ」と感じたとしても、それが同じ「青」であるかは分からない。それこそ「自己/他者の分断」である。
しかしこの2人は、それ以前の段階、すなわち「そばにいる」「傍らにいる」という段階において、「共同的な事実」=「青」を立ち上げ、理解しあう。
この色鬼を経て、文芸部一同は燃え尽きる。本郷ひと葉曰く「青っていうより真っ白」なまでに。そして彼女は「「白痴」かな、坂口安吾」と付け加える。
しかし曾根崎り香は次のように解釈する。
曾根崎り香:純潔の白。汚れがなく、心が清らかなこと。また、その様。異性との性的な交わりが無く、心身が清らかなこと。……これから色んなことを知ったら、私たち、どんどん汚れていくのかしら。
須藤百々子:そうは思いません。だって、今までこの校舎を牛耳ってた「青」が、「白」い光に照らされたら、色だらけになりました。これだけの色が、「青」の下に眠ってた。染まっていくんじゃない、汚されていくんでもない。新しい気持ちに照らされると、自分でも気づいていなかった、もともと自分が持ってた色が、どんどん浮かび上がってくるんだ。
夜の校舎を月明かりが「青」く染め上げる。しかし太陽が昇ってくることで、そこが「カラフル」であることに気が付く。
注目すべきは「私たちは青い群れ」と菅原新菜が色鬼のお題を出したとき、本郷ひと葉がすぐに「青春」という語を思い浮かべたことだろう。
女子高生たちは、「青春」という色に染め上げられている。しかし、それはそのような一色に染め上げられていい種のものではない。それぞれが持つカラフルの色彩さえ、「青春」色に染め上げていく様子。それに異議を唱える彼女たちは、燃え尽きて「真っ白」になり、そのときはじめて「自分が持ってた色」に気が付く。
「真っ白」とは決して純潔の色なのではない。第一、そこで坂口安吾の「白痴」が引き合いに出されたことがそれを物語っている。
先述の通り、「真っ白」とは「色」なのではないということは、すでに示した。ここにおける「真っ白」とは、もはや「色」なのではなくて、そこに差し込む「光」そのものを指し示す。そのとき、「純潔」もまた、「心身が清らか」=異性と交遊しないことなどという対応関係からズラされる。
「ズレ」ていく
この物語の最終回における要点が、「ズレ」にあったことがご理解いただけただろうか。
この物語はここまで、性的な事柄に疎く、純潔=「真っ白であること」にこだわり続けた女子高生たちを描いてきた。
しかし最終回になって、そのような価値観を「ズラす」のである。それは、元が「真っ白」であり、それが性的関係によって汚されていくのだという偏屈したタブラ・ラサ的発想の拒絶である。
純潔=色に汚されていないこと、という対応関係は、純潔=それぞれの色が主張すること、へと「ズラされ」る。
そして「真っ白」もまた「汚れなき色」から、それを照らす「光」へと「ズラされ」るのである。
だからこそ、この作品は最後に痛快であった。この「ズレ」にこそ、僕たちは「してやられた」と膝を打つしかないのである。
令和元年の天皇論
もはや天皇制が問題として机上に上げられることなどありはせで、ほとんどの人々が天皇制を自明のものと考えており、そうでない者は特別にイデオロギーを背負った急進左派か、熱心などこかのカルトの信者である。
しかしそもそも天皇制とはいかなる制度であるのかということについて、その極めて根本的な解釈を行った例は少ない。厳密に言えば天皇論は数多ある。しかしながら、そのどれも市井の庶民にはいまいちピンと来ないというのが実際ではないか。
その点で、僕は第一に、「天皇」なる存在が持つ役割について指摘したうえで、第二に、現代の「天皇」なる存在について述べていきたい。
◆
そもそも「天皇」なるものは万世一系であることこそに意味がある。
このように書けば、「君は危険な右翼に違いない」と断じられるかもしれないし、それもある側面で間違いではないが、より詳しく書こう。
すなわち、「天皇」は万世一系であると語られる上において、意味を持つのである。
例えばヨーロッパの国々を思い浮かべてみればいい。ヨーロッパにある王室というのは、大概歴史の中でよその国からやってきたり、連れてこられたりしている。
一方、天皇はどうだろうか。例えば、日本の皇室の人々が全て亡くなってしまったりして、仕方がないのでイギリス王室から到底王位継承の恩恵に預かることの無いであろう王子を連れてきて、「天皇」ということにするようなことがありうるか。
もちろん人種の問題があるのかもしれない。しかしそれ以前に、より根源的に、僕たちが「天皇」に求めているものは、「これまでも続いてきたしこれからも続いていく」というところにこそ本質があるのではないか。
大日本帝国憲法において、その第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書かれていたことは、単に君主権を強めようというのではあらで、「万世一系の天皇」ということを示している。
ただ「大日本帝国ハ天皇之ヲ統治ス」とするのではいけない。統治者の天皇は、その背後に一〇〇代以上の天皇家の歴史を背負っている。もちろん、戦前でさえ、この一〇〇代以上というのがまともに信じられていたのかは怪しい。『日本書紀』なり『古事記』なりを紐解いても、最初の部分は全く信用すべくもない様子だ。しかし重要なのは、なんども繰り返す通り、「万世一系である」と語られることなのであり、「これまでも続いてきたしこれからも続いていく」というストーリーを語ることなのである。
そのことを、「天皇」という呼称がよく示している。本質的に「天皇」に名前などありはせず、ただ「天皇」あるいは「今上」と呼ばれる。そしてそのように呼ばれる存在は、二六〇〇年以上続いてきた(ということになっている)のである。
「天皇」を語る上で、それぞれの「天皇」の人格などは考えるべきではない。厳密にいえば、「天皇」に対する人格とは、諡号という形で、崩御した後に与えられるものである。
「天皇」が仮に高貴なのだとすれば、その高貴さとは背負う歴史の長さに由来するのであって、血統の問題などではない。「天皇」が仮に神聖なのだとすれば、その神性なるものはその歴史の長さの中ではぐくまれたものである。
◆
現代の「天皇」について現代日本人が抱いている感情は、おそらく歴史上最も「純」であるものに違いない。
ヨーロッパの思想家、例えばアーレントなどを紐解くと、彼女は「政治」ということについて多弁に語るが、日本人からしてみるとその割合があまりに高すぎる、すなわち僕たち自身において「政治」が占めるウェイトと、アーレントが「政治」に置くウェイトのギャップに困惑することもある。
ヨーロッパにおいてどうであるか、さっぱり知らないが、けれど少なくとも現代の日本人というのは、人々の連帯の中に二面性を包含している。
人々が集まると「政治」的になるというようなヨーロッパ的な判断は、少なくとも日本では明らかに間違っており、日本では人々が「政治」的側面を持ち連帯する一方、「世俗」の中で連帯もする。
むしろ、日本の投票率の低さを鑑みてみれば、日本人は「日本人」としてなら「政治」的になりうるかもしれないが、それが個人の知性において占める割合は大きくない。個人の脳内は、その大部分が「世俗」のために割かれている。
「だからこそ」という接続語が正しいのかは分からないが、日本人が未だに安倍晋三を総理大臣=「政治」的リーダーに据えているのはそのためだろう。すなわち、安倍首相を批判するために使うような知性というのは、日本人には残されていない。
一方、僕たちは、その頭脳の大部分を捧げる「世俗」的側面のリーダーとして「天皇」を戴く。
だからこそ、先帝陛下は慰霊にこそ多くの時間を割いてきた。僕たちにとって、最も「世俗」的な営み=プライベートな営みとは、死者を慰めることであるからだろう。
もちろんそこには、「天皇」なる存在が帯びる神性も作用しているに違いない。
先に述べた通り、その神性とは「天皇」の背負う歴史に由来するものである。
例えば長谷川三千子は、野村秋介の拳銃自殺に「彼の行為によって我が国の今上陛下は人間宣言が何と言おうが憲法に何と書かれていようが再び現御神となられた」と書いたらしいが、これはある点において示唆的である。
すなわち僕たちは、この長谷川氏の文章において、「天皇」が宗教的存在であったことを思い出す。そう、「天皇」は本当は宗教的存在のはずなのであるが、その「宗教」が「世俗」か「道徳」かに置き換えられ、信仰心が「敬意」や「畏敬の念」と言った形に挿げ替えられることで、それが隠蔽されている。
◆
最も危険な論旨を述べる前に、先に僕の立場を明らかにしておくのならば、僕は天皇制に対して賛意を示す。
僕たちが「政治」的リーダーとは他に、「世俗」のリーダーを担ぎ上げることは、確かに「政治」的になりえない日本人において意味があるだろうし、その「天皇」が背負う歴史が、無碍にせらるべきものでは無いことを、殊人文学徒たる僕は、よく理解しているつもりなのである。
◆
その上で、だ。かと言って僕たちは、天皇制が巧みに隠蔽した諸問題を、「尊敬せらるべき人」との由で無視することはできない。
天皇制とは本質的に封建的である。
天皇を担ぐ時点で、僕たち国民が、天皇を疑似的に「父」に見立て、国民一人ひとりが「赤子」であるとの関係が構築される。その点において、また、皇族の中に色濃く残されているように、これは「イエ制度」の名残なのであって、その封建的雰囲気がこの国を包み込むのである。
そして、「天皇は男性でなくてはならない」という規定があり、天皇が国民の疑似的な「父」である限り、皇族の営みというのは、つまりホモソーシャルな交流でしかなく、「天皇は女性であってはならない」という規定のためにミソジニーすら見通せる。
すでに指摘されている通り、ホモソーシャルな関係とは、ミソジニーとホモフォビアをその宗旨とする。実際、天皇制というシステムは同性愛を想定していない。天皇が同性愛者であり、皇后を迎えられず、ゆえに子孫が残らないというような場合を想定できていない。
そこで敷衍して、愛知トリエンナーレにおける表現の不自由展で、昭和天皇の肖像が燃やされた一件を考えたい。
右翼の批判は、「お前の写真が燃やされたら嫌な気はしないのか」というものだったのだが、その批判が当たらないことはお分かりだろう。
つまり、「写真が燃やされたら嫌」というのは、人格の問題である。しかし先に述べた通り、本質的に「天皇」に「人格」は想定されていない。崩御した後に、諡号という形で付与されるものに過ぎず、そもそもそれほど重視すべきではない。
この国は「天皇」に「人格」だけでなく「人権」さえ認めていないのであり、その点において憲法の「象徴」なる語は言いえて妙である。そう、「天皇」とは、ある「記号」なのであり、それは一義に措定される。
言うなれば、本来人が持つべき、時に相矛盾するような属性というのがある。「異性と接するのは苦手」と思いながら「異性の恋人がほしい」と願うようなものだろう。しかし、そうした矛盾の全てを「人格」が包含する。「人格」とはモノフォニーでありつつ、ポリフォニーなのであり、多次元な不定形を示す。
しかし、天皇にはそういうものが無い。天皇には、相矛盾する属性などあらで、ただ一義に措定され、そこに本来あるべき人間としての「深み」のようなものは切り捨てられる。
例えばアイドルファンばアイドルに対して抱くような「幻想」を、僕たちは「畏敬の念」と置き換えて天皇に対して抱くのであり、アイドルの私生活をアイドルファンは見て見ぬふりするように、僕たちも天皇の「人格」を見て見ないことにしている。
本筋に戻れば、「天皇の写真を燃やす」ということは、その点において問題無い。「天皇にだって人格はある」と言う批判があるかもしれないが、それは「天皇だって普通の人間だ」=「天皇なんていなくていい」ということでしかない。
また、天皇の肖像には、燃やされる理由がある。先に述べた通り、天皇制は問題を孕んだいるからである。
◆
僕たちは往々にして天皇を語るが、そのたびに、その背負う(とされる)歴史の長さに目をつむる。それは確かにある面では正しく、なぜなら天皇の歴史の最初の部分とは「空想」でしかない。
僕たちは往々にして天皇を語るが、その天皇についてのnarrationが、天皇から「人格」を奪うものであるとの意識は無いように思える。
僕たちは、極めて身近であるはずの存在について、ただ漠然と「尊敬」し「畏敬の念」を抱くのであるが、それが抱えている問題と、その残酷さについて考えることなしに、やはり天皇を崇敬するという考えには与するべきではないのではないだろうか。
HiHi Jetsの #日本破壊 について
本当は、ジャニーズについてはいくつか論文を読んで、きちんとした形で記事を書きたいところでした。
ただ、今日のサマステ生配信、#日本破壊 トレンド入り、それに合わせたネット上のアレルギー反応を見ると、それを待てない感じがあったので思ったことを書きます。
◆
まず、僕はこのハッシュタグは問題が無いという立場です。
というか、それより前、東京ドームでの「ジャニーズJr. 祭り」でHiHi Jetsの猪狩蒼弥は「ここにいる全員の熱で文京区丸ごとぶっ壊そうぜ」と発言したはずです。
果たして、それは問題になったのか?
答えは、Noです。問題にはならなかった。しかし、「文京区」が「日本」に置き換えられると、途端に問題になってしまう。
それはそれが、ある政治的な意見を持つ人々に響いたからです。
そしてその「ある政治的な意見を持つ人々」とは、大多数がネトウヨと呼ばれる人々でした。
◆
ネトウヨの根本的な考え方は簡単に言うと「日本アゲ」です。
彼らの大多数は「日本人だから日本が好き」というような言い方をします。それはもちろん問題ではないと思います。
ただ、「日本が好き」というのと、「日本が素晴らしい」というところには、本当は大きな違いがあるはずです。けれど、ネトウヨはそれを理解していません。
本当は、日本にだって反省すべき点や、たくさんの失敗・誤りがあるはずなのですが、それは見て見ぬふりをするか、誰か他の人のせいにしているのです。
◆
だから彼らは、「#日本破壊」と見ると怒ります。「日本アゲ」とは反対のように見えるからです。
しかし、事情を把握している人は分かると思いますが、「#日本破壊」というのは「日本サゲ」のための発言ではありません。
会場や、ネットでの生配信を見ている人に対して、「日本を破壊するくらい盛り上がっていこう」という意味があったわけです。そして、そのことはTwitterのトレンドをタップして、そこに出てくるツイートを2つか3つ確認するだけで、誰でも理解できるはずです。
つまり、「#日本破壊」に文句を言っている人間は、トレンドをタップし、ツイートを確認し、そこまでの話の流れ(文脈)を理解することさえできないような人々だということです。
◆
私は、そのような低レベルな人々のアンチコメントは、気にすべきではないと思います。
ここで彼らのコメントを真に受けて、謝罪したりしてしまえば、HiHi Jetsの活動の幅が大きく狭くなります。なぜなら彼らは「誰も怒らせない」ということを第一に考え、当たり障りのないことしかしなくなるでしょう。そしてそれは、とてもつまらないことだと思います。
アンチは、いずれ発生するものです。数が少ないに越したことはありませんが、0にはできません。考えるべきは、「どれだけたくさんの人を楽しませられたか」です。
その点において、今回の「#日本破壊」のハッシュタグを見ると、たくさんの人が生配信を楽しんでいたと分かります。そして、その数はアンチコメントの比ではありません。
だとすれば、今回のようなことで委縮する必要はないのではないでしょうか。かえって委縮すれば、この先の可能性を狭めることになるからです。
◆
もちろん、端的に言って「ガキ臭い」というような感じを覚えないではありません。
ただ、彼らは一様にティーンエイジャーで、だからこそエネルギッシュに走り抜けているわけですから、大人が勝手に忖度してそれを止める必要も無いと思います。
青臭くて結構。それは今しか発揮できない彼らの魅力でしょう。
◆
最後に少しだけ難しい話をします。というのは、#日本破壊 と終戦の日を関連させた意見についてです。
終戦の日に「#日本破壊」だなんて不謹慎だ、という考えがあるかもしれません。しかしそれはやはり前述の「日本アゲ」の中での発想でしかない。
それに第一に、トレンド入りしたのは8月18日なのであり、終戦の日から3日が経っています。
戦後70年以上が経って「この国をぶっ壊すぐらい盛り上がろうぜ」ぐらいのことが言えないほど、この国が窮屈なのだとしたら、そんな国は、本当に壊してしまうべきです。
◆
後々言いたいことは募ってくると思うのですが、この記事に加筆するつもりはありません。
現時点での私の意見は以上です。
想像力について
二つの炎上
「参院選について」と題した記事で、僕はこの国の国民がより愚かになってきたと書いたが、それは「想像力」の欠如の問題である。
具体的に二つの炎上を見れば事足りると思う。
第一に、若槻千夏の炎上である。彼女は参院選の選挙速報で、次のように発言した。
これに対し、2人の子どもを持つゲストの若槻千夏さんは「18時以降に子どもが学校から帰ってこなくて探しても見つからない時、学校に電話しても学校が対応してくれないなんて寂しくないですか? 気持ちはわかるけど、もっと減らせばいいことはある」と発言。有名な学園ドラマを引き合いに出しつつ、教員が子どもの対応を勤務時間で割り切ることについて「ビジネス的で寂しい」と違和感を示しました。
若槻千夏の問題はただ一点だと思う。それは「寂しい」という極めて個人的な感情を、社会的正義のように振りかざしてしまったことだ。
しかし世間一般の人々はそうは受け止めなかった。彼女が誤ったことを言っている、と受け止めたのだ。そして彼女の発言が炎上し、最後にはインスタグラムで謝罪した。
冷静に考えてみれば、この謝罪にほとんど意味がないことが分かる。つまり若槻千夏の発言の真偽は、もはや個人の価値観に属することなのであり、「お前の価値観は認めない」という世論が、彼女に発言について謝罪させることになった。
しかし彼女がそもそも学校教員の働き方改革について「ビジネス的で寂しい」と考えたという事実は無くならないし、何事もなければ今もそう考えている。つまり、この一連の騒動は、全く社会にとってプラスとなる要素を含んでいない。
「社会的正義と認められそうなこと」に反する発言を非難し、そうした発言をさせないようにするだけで、「社会的正義と認められないこと」を考えること自体は批判されないのである(そして、批判されたところでは、それは「思想・良心の自由」の領域で、立ち入るべきではない)。そしてそれだけのことを考える「想像力」が炎上させた人々のなかには無い。
第二に、あいちトリエンナーレの問題を考えたい。
こちらは要するに「芸術」という特殊なコンテクストを考えずに安直な批判が行われたことが問題である。
というのも、僕たちが日常で使う言語は「AはBである」という文が「A=B」ということしか意味しない。しかし、芸術の中において「AはBである」ということは「A=C」ということや「A≠B」ということを示すのかもしれない。それだけの「想像力」が欠如しているのである。
複雑さを受け止めること
「想像力」とは何か。その前提にあるのは、「複雑さ」を帯びる問題系を、そのまま把握するという力である。そしてこれは、人文学の問題であると考えて良い。
「複雑さ」を帯びる問題を、「簡単な問題」に翻訳することができるのであれば、文学は必要ない。それは「文学作品を読むよりあらすじだけ読めばいい」ということであり、「説明文や意見文を読めばいい」ということになるからだ。
「複雑さ」を帯びる問題を、そのまま把握すること。それは「理解する」ことや「解決する」こととは異なる。それを成し遂げるのは「想像力」である。
と言うのも、問題が「複雑さ」を帯びるのは、多くの場合、そこに「複数性」が見られるからだ。ある問題が、Aという地点と、Bという地点から見るのでは様相を異にする。それを、「とりあえずAから見る」といった風に、簡単に翻訳することなく、把握することが、「複雑さ」に向き合うための第一歩である。
もちろんこれは文学においてポリフォニーと呼ばれる問題ととても近い。
具体例を挙げよう。センシティブな問題として、いわゆる慰安婦問題がある。そこで「強制連行された従軍慰安婦がいた」と主張する人々と、「そのような人々はいなかった」と主張する人々がいる。
お互いの政治信条として、己の主張を持つことは全く悪いことではない。しかし、己の主張は差し置いて、互いにそれぞれの主張を把握するということができなくては、問題の理解にはつながらない。
つまり、「強制連行された従軍慰安婦がいた」と考える人々は、世の中には「そのような人々はいなかった」と考える人が存在するということを把握しなくてはならないし、それなしに、とりあえずお互いの考えを否定するのでは、全く生産的なやり取りは可能にならない。
僕の考える「想像力」とは、つまり自分とは考えを異にする他者の存在を把握するということである。それは他者に与するということではない。そうした(文学的)想像力が成し遂げられない先に、まず明るい未来は無いだろうと思う。
参院選について
大衆の愚かさ
参院選が終わったが、それよりも前から、すでに国民の愚かさなるものは明らかにされているはずである。つまりそれは、結局一人ひとりが国の未来について考えていくなどという、理想的有権者・国民の姿は幻想に過ぎないことは明らかである。
その点、例えばルソーは、各人の思考である特殊意志の合計としての全体意志ではなく、共同体について公民として思考する一般意志が発動することで民主主義が機能すると考えたが、実際にはそんなことはなかった。
結局今の日本人の思考には特殊意志があるだけで、共同体を思考するだけの想像力が無かったと言わざるを得ないだろう。
そもそも現代の日本人には「日本国民である」ということを想像するだけの想像力もない。アンダーソン曰く「想像の共同体」、吉本隆明の「共同幻想」すら構築できておらず、そこにあるのは安直な〈わたし〉の拡張である。
つまるところ、現代日本のネトウヨしかり、今のナショナリズムのようなものは、想像力を働かせて国家を愛し、国家を守るようなものではなく、〈わたし〉を肥大化させた存在としての〈日本〉しか想像できていない。
その想像力の欠如が、マゾヒズム的なネトウヨの主張、つまり「義務を果たさなければ権利は与えられない」だとか「同性婚は認めない」などといったところに結実している。つまり、〈わたし〉と相いれない〈他者〉が共同体内に存在することを想像できていないのである。
結局人々の支持を集めたのは、「今のまま安定している」という点で〈わたし〉を利する与党と、「消費税ゼロ」などで〈わたし〉を利するれいわ新選組などであった。
それ以外の野党が、与党を批判したとしても、そもそも支持者の思考の形が大きく異なるのだから、意味が無いのである。
その点で、現在の愚かな国民たちの間には、〈わたし〉を乗り越える国家への思考が足りなかった。〈わたし〉のことしか考えられない、あるいは〈わたし〉を肥大化させた存在としての〈日本〉のことしか考えられない状況を〈文学〉と呼ぶのであれば、それを乗り越え国家を思考する〈政治〉には至らない。
宇野常寛曰く、〈終わりなき日常〉が〈文学〉と〈政治〉の断絶に起因するのであれば、それはいつまでも続いていく。この国が震災以後「政治の季節」だなどというのはやはり幻想であり、〈文学〉が持ち場も弁えず膨張し、「政治ごっこ」を繰り広げているに過ぎないだろう。
「選挙に行こう」は利するか
とはいえ、「政治ごっこ」の最たるものは、主に反政権側の「投票に行こう」といった種の話である。
しかしここにおいて考えられるべきは、そもそも国民の大多数は、国家について考えるだけの想像力すら持ち合わせていないのだから、「投票に行こう」と言われて投票に行ったとしても、その投票行動が野党を利することになるというわけではないことである。
むしろ、選挙に行かない層、それはすでにサイレントマジョリティになってしまっているが、彼らの多くは現状に問題意識を抱いていないのではないか。つまり「安倍政権で問題ない」と考えている。ということは、この層が投票に行ったとしたって、野党を利することにはならない。
であるとするならば、野党が行うのは、むしろ与党支持者の想像力を喚起することであった。知性を持てと説教し、啓蒙していくことであった。
諸外国のリベラルが、高学歴・高収入によって占められるように、そうした良識人たれと有権者の蒙を啓いていくのが、我が国のリベラルの第一歩ではないか。
その点で、この国のリベラルは致命的な思い違いをしている。彼らは国民を信じ過ぎているのである。何よりこの国の国民は愚かであるということを考えなくてはならない。そして、国民が愚かであるときに利を得るのが、上級国民たちであることを、数多くの中流・下流国民に伝えていく使命を思い出すべきである。
憲法改正について
〈わたし〉の膨張した形での現在の右翼の在り方、便宜上ネトウヨと一括りにする。
そうした人々が憲法改正に熱心であるとしても、その憲法改正の在り方は、国のことを考えたものではなく、もはやどの動機を本人たちでさえ見失っているというのが本当のところではないか。
とは言いつつ、憲法9条に書かれていることと自衛隊の存在が矛盾することは、リテラルな読解として認めなくてはならないだろう。というか、特殊なコンテクストを理解しなくては理解できない憲法であるならば、そもそも憲法としてふさわしくないだろう(同様の理由で、憲法の本文は全て現代的仮名遣いに改めるべきである)。
そうした議論を行うことは必要だし、そうしたなかで国民の蒙が啓かれていく可能性はある。しかし、それに対して野党が「安倍政権下では議論しない」などという子供じみた話で対応していないだとか、憲法審査会を止めているのは与党野党どちらだだとか、そういうバカげたやり取りを続ければ続けるほど、愚かな国民たちは野党から離れていく。
そうした点において、議論はなされるべきである。また、全ての政党は何らかの形で憲法に不満を抱いているのだから、そこをすり合わせていく必要があるだろう。それすらなさず、1946年にできたようなホコリ臭くカビにまみれた条文をありがたがっているのは、さながら宗教である。
マシになるか
これからの日本の未来は暗い。
何より、安倍政権がこれ以上続くというのが致命的である。だって、アベノミクスの目覚ましい成果は見えない。管見ではその理由は財政出動が十分ではないことである。
安倍政権が何かにつけ「民主党政権を思い出せ」と言うが、かつてよりもベターである、という理由で現状を支持するのに、6年はあまりに長すぎるのではないか。
そもそも民主党政権の体たらくの一因は──55年体制以後みなそうであるが──自民党以外が政権を担えないという構造上の問題にある。圧倒的長期間自民党が政権を担ってきた。党内にその機構があり、党内で大臣などを育成していく。その仕組みが野党にはない。
つまり、政権交代すれば失敗するのは、この国において必然である。しかしそうであるならば、この国は事実上自民党の一党独裁であるということになる。だとすれば、多少の失敗には目をつむり野党に政権を取らせてみる必要があるだろう。その後のリハビリとして安倍政権は十分機能を果たしただろうし、そろそろ野党がもう一度政権を取ったっていいと思う。
であるのに、野党は政権を奪取する構想を見せない。55年体制における社会党のように、万年野党に甘んじ、過半数以下のなかでどれだけ多数を取れるかという、全く意味をなさないところで戦っている。
野党の勝敗ラインが、憲法改正の発議をできる3分の2を阻止するかどうかにあるのだとしたら、それは笑止千万であると言わざるを得まい。
こうした具合において、愚かな国民の住まうこの国の未来は暗い。そしてそれが明るくなる未来は見えない。
アイドルについて
ジャニー喜多川氏の訃報が世間をザワつかせた。
その時考えさせられるのは氏が日本の男性アイドル文化の発展に対して負った多大な役割である。
そこでここでは、「アイドル」とはいかなるものなのかを、何ら先行研究を参照せずにつらつら述べていく。もちろんその中には、すでに指摘されている点、あるいはすでに否定されている意見が含まれることもあるが、いずれも管見では了解できなかった点であり、ご寛恕いただければ幸いである。
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さて、さしあたり僕は「アニメ」におけるアイドルを参照したいと思う。その理由は、武者小路実篤「お目出たき人」にある。
この小説は、主人公「自分」が鶴という女性に、会話したこともないのに恋慕し、ほとんどストーカーのような振る舞いを見せる。そこに次のような箇所がある。女の神聖性を信じて疑わぬ「自分」の内心の吐露と考えて問題なかろう。
女によって堕落する人もある。しかし女あって生きられる人が何人あるか知れない。女あって生れた甲斐を知った人が何人あるか知れない。女そのものは知れない。(男の如く、否それ以上に。)しかし男と女の間には何かある。
誠に女は男にとって『永遠の偶像(エターナル・アイドール)』である。
さて、ここで注目したいのは、武者小路実篤が『永遠の偶像』に「エターナル・アイドール」というルビを振っている点である。当然のことであるが、アイドルというのは「偶像」である。
では「偶像」であるということが何を示すのか。それが端的に表れるのが、アニメの「アイドル」ではないかと思うのだ。
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例えばアニメ「ラブライブ!」を考えてみよう。
この作品は、主人公たち9名の少女が、自らの学校を廃校の危機から救うため、スクールアイドルとして活躍するという筋書きである。
このストーリーがあまりに陳腐であるという批判は、おそらく当たらない。なぜならば、このアニメは「ストーリー」を見せるためのものではないからだ。
元がゲームであるように、この作品の根幹はむしろ「音楽」にあるのであり、個々の「楽曲」を「ストーリー」らしきものが接続するという構造を持つと考えて良い。
言ってみれば、在原業平をはじめ、多くの歌人の短歌を集め、さながら一つの物語を形成した『伊勢物語』のようなもので、全体を統御する緻密な「ストーリー」はそこに見られない。
それでも単にゲームであるものを、やはりアニメでも展開するというのは、単純にゲームの人気や話題性を高めるということ以上に、「人々が物語を求める」という本性に従っていると言っていい。
しかしその「ストーリー」の中で徹底して排除されるリアリティ。例えば、廃校が突然決まったり、無名のスクールアイドルがどんどん有名になっていく様などは、リアリティが欠如していると言わざるを得ないが、それは何よりそこに人々は「偶像」を求めているからと言えるだろう。
つまり「偶像」=アイドルとは、リアリティを捨象した先に生まれる。
これが「アニメ」で展開されることにも留意したい。「アニメ」=二次元とは、三次元において付加される奥行き=リアリティを捨象した、アイドル向けの媒体であったと言えるだろう。
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これを現実のアイドルに敷衍すると、話は簡単である。
つまり、現実のアイドルとは「三次元」のようでいて、実際にはリアリティを捨象した「二次元」的属性を示す。つまりそこには切り捨てられるリアリティがある。
そのことを如実に示したのはSMAPの解散だったのではないかと思う。SMAP解散にあたって、多くの憶測がネット上で飛び交い、それは現在も止むことはないが、そのなかには大きく二派ある。
一つは、SMAPが不仲であったことを認める人々。もう一つは、SMAPは不仲であったりせず、実際には今も再結成を願っていると考える人々である。
このいずれかが正しいという問題なのではない。SMAPの活躍をつぶさに観察していようと、そのどちらもありうると思わせてしまう不確定性こそに注目したい。つまり彼らは「実際の人間関係」を捨象し、SMAPというアイドルとしてリアリティを捨象してアイドルであった。だからこそ、ファンは「実際の人間関係」についてはまとまった見解を示すことができないのである。
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そこで、ではアイドルが捨象した「リアリティ」の本性について考えたいところである。
その際導入すべきだと考えるのが、ホモソーシャルという概念である。
これは同性間に結ばれる連帯のことであり、殊更男性にだけ用いられるものではないが、イヴ・K・セジウィック『男同士の絆』以後、これは男尊女卑的で家父長制的な社会構造を温存してきた男性社会への批判によく用いられるようになった。
ホモソーシャル的連帯を示す男性は、その中でホモフォビアとミソジニーという二つの属性を示す。
例えば、男同士が連帯する中に、同性愛者が紛れ込んでいたらどうだろう。友情で結ばれる関係性が、愛情の介入によって崩壊してしまうだろう。あるいはそこに、積極的に男性を誘惑する女性が現れたらどうだろう。同様の理由で、男同士の絆は崩壊してしまうに違いない。
すなわち、ホモソーシャル的連帯(=友情、信頼関係)を崩し、恋愛関係へと縺れさせる「同性愛」などは認められないし、その中で女性が主体的に登場してきて恋愛することも同様の理由で認められない。
ホモソーシャルの中においては、女性は欲望される客体として三角関係の中にただ「置かれる」だけの存在であり、主体性を発揮することは期待されていないのである。
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女性たちは、果たしてそれを黙って見ていたろうか。
そのことに目を付けたのが、ジャニー喜多川氏であったのではないだろうか。
氏はゲイであるとされることもあるが、もしそれが本当であれば、氏は男同士の絆から放逐される存在であったということになる。そんな彼が「男性アイドル」をプロデュースするとき、彼はそこから醜悪なホモソーシャルの香りを一掃することを務めた。
今やジャニーズを見て、その活動からミソジニーの要素を感じるファンは少ないだろう。また、意図的にホモセクシャルな関係を想起させる演出もあり、ホモフォビア的属性も示していない。
女性たちがジャニーズに対して魅力を感じるのは、ひとえに自らを単なる「客体」としてただ「置いておく」だけの存在ではなく、むしろ「偶像」=アイドルに影響を及ぼす「主体」としての価値を回復させるところに主眼がある。
一方、それと全く反対の属性を示すのが、秋元康氏がプロデュースするような女性アイドルである。
彼女たちは明らかにファン=ホモソーシャルな連帯によって性的消費の「客体」とされるべき存在として設定される。その盛衰のスピードが男性アイドルの比ではないことが、何より「消費」の証左であろう。
こうしたように、アイドルとは「偶像」=リアリティを捨象したところに存在するものなのであって、だからこそジャニー喜多川氏のプロデュースするジャニーズは、それを達成した存在として、評価されてきた。
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以上を暴論だと思うかもしれないが、実際にはそうも言い切れないのではないか。
何よりジャニーズは結婚しない。彼らには「好みの女性のタイプは?」などヘテロセクシャルであることを前提とした質問が投げかけられるにも関わらず、彼らは極めて無性的に振る舞う。
それこそがホモソーシャル的連帯=男同士の絆を崩壊させ、全く新たな連帯を生み出すことにつながったのではないか。
そしてその無性的な様子はジャニーズのメンバー同士のやりとりが「わちゃわちゃ」という風に形容されることからも思い起こされる。彼らは「男」ではなく、むしろ第二次性徴以前の無性的「男の子」として存立することを求められる。
そうした営業スタイルは、今や他事務所にも影響を与えている。
例えばアミューズの「ハンサム~~」を見ればそれがよく分かるが、直近のイベントであった「HANDSOME FESTIVAL」のコンセプトが〝学校〟であったことが思い出される。彼らはやはり「男」ではなく、「男の子」として造形される。
更にその前の年のイベントでは、神木隆之介氏と吉沢亮氏がイベント中にキスして見せた。これもまた、ホモソーシャルな連帯の「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」という属性を捨象するような出来事だったと言えるだろう。
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ここまでで論を終えていいのだが、最後に、そうしたアイドルが時折見せる「色気」のようなものに触れておこう。
例えばジャニーズのアイドルであっても、雑誌『an・an』の表紙を飾ったりする。時に彼らは半裸になり、「セクシー」な様子を見せる。
しかしそれは彼らがホモソーシャルな連帯を破綻させるからこそ「男」である様子を時折見せても問題ない、ということを示しているにすぎない。
つまり、普段は「男の子」であるからこそ、時折「男」を見せたとしても、そこにミソジニー(女性嫌悪)の萌芽は感じない。そして、男性間の関係性の中において女性が「客体」としてやり取りされるような理不尽さを感じさせないのである。
と、ここまで考えたとき思い起こされるのは、日本の女性アイドルが、いかに醜悪な存在であるかということである。
何も現実の彼女たちが醜悪なのではなく、彼女たちをあくまで性的な「消費」対象として売り込むようなビジネスの在り方が、ひどく醜悪であると思う。
こう考えたとき、男性アイドルと女性アイドルの在り方は、全く異なる背景を持つことが分かるだろう。